書評

心理学入門「ユングの心理学」コンプレックス 河合隼雄著 書評

誰しもが抱えるコンプレックス…

解消できるのであれば、皆さん解消したいと思う。だが、コンプレックスの存在は自身の心を安定させるには必須の要素である。

人には、コンプレックスの存在が必要なのである。

その点を詳しく説明したいと思う。


コンプレックス (岩波新書)

 

 

コンプレックスとは何か?

女の子が悩んでいる

albertoadan / Pixabay

コンプレックスというのは、心理学の専門用語である。

この用語が始めて我が国に紹介されたときは「心的複合体」あるいは「複合」などと訳されていたが、現在ではコンプレックスのままで用いられ、ほとんど日常語のようになっている。

最初にコンプレックスと用いたのは、スイスの精神科医ユングである。

コンプレックスについての正確な意味とかについて、案外知らない人が多いので解説したい。

コンプレックスは主体性をおびやかすもの

我々は「自分で自分の行動を律することができる」と思っているので、自分の意志とは異なる行動が生じて悩んでいる人も多い。

本人の意志に反する行動という点で、もっとも劇的なのはヒステリーだ。ヒステリーは異常なことであり「我々には遠い存在だ」と思いがちだが、正常と異常の壁は、皆さんが信じてる程、強いものではない。

例えば「赤面しやすい」「他人の視線が気になる」などの経験はあるのではないか?

自分の意志に反して、対人関係のなかで何らかの不安を経験してることはあると思う。

他にも日常場面で、我々がよく経験する自分の意志に反する行為として「言い間違い」「物忘れ」がある。よく知ってる人であるのに、名前を突然思い出せない、大切なところで言い間違えてしまった経験はあるのではなかろうか。

「虫が好かない」という言葉がある。

理由は明確ではないが気に入らない意味だが、この「虫」とは何だろうか?この虫に主体性をおびやかすコンプレックスの存在を感じる訳である。

主体性をおびやかすものは他にもあり、それは夢である。夢は我々自身の心の現象でありながら、自分の意志に従ってみることはできない。

見たい夢をみれないということ。

自分の中のコンプレックスを発見するためには夢が役立つのだが、実験的に明らかにする方法としてユングが考えだしたものは言語連想法である。

 

言語連想検査

ユングの用いた言語連想法とは、あらかじめ定められた百個の言語があり、検査者は被験者に対して

「今から単語を一つずつ順番に言っていくので、それを聞いて思いつく単語を一つだけ、できるだけ早く言って下さい。」と言いストップウォッチを持ち相手の反応した単語と反応時間を書きとめていくものである。

このような検査は以前からあったようだが、ユングは人々がどのような連想をのべるかということよりも、連想時間が非常に遅れたり、連想できなかったりする現象に注目した。

*ユングの連想検査法については、別の記事で詳しく紹介する。

ここでは連想検査法からコンプレックスのヒントがわかる点を抑えてほしい。

 

自我

経験の主体であり、意識内容の統合の中心をなすものを「自我」と呼ぶことにする。

意識するとは、その経験を自らに語ることである。例えば馬をみて「馬がいる」と表現できるのと、幼児が「!」のみの場合では何かわからず経験を語ることができない。つまり自我で認知されたものとして記憶に残すことができないことになる。

ユングは、自我機能のひとつとして直感をあげている。自我が今までの経験の集積であるなら理解できる事柄である。

自我は完成されたものではなく、これからの経験で形を変える不安定なものでもあり危険にもさらされている。経験の過程とコンプレックスとの関係が重要で自我に影響を与えるようだ。

 

コンプレックスの構造

コンプレックスの構造は、ある党派のなかの派閥によく似ている。ある程度その党派の動きに従いながら、時にはひとつの集団として党の動きに対抗したりする。

自我も一つの派閥であり、主流派として政権を獲得している。そのような意味で自我もコンプレックスの一種であると考えることが出来るが、主流派という点を抑えておきたい。

カインコンプレックス

カインコンプレックを例に、コンプレックスの構造を説明する。

カインコンプレックとは、自分とは生き方の異なる人に対するコンプレックス。兄弟間の強い敵対感情がわかりやすい。

例えば、料理上手な姉がいると「料理コンプレックス」を持ち、さらにその根本に「カインコンプレックス」がある。

このような時「料理上手になればコンプレックスが解消される」と思われがちだが、根本のカインコンプレックに気づかなければ解消されないとわかる。

コンプレックスの解消はそれ程簡単ではなく、ひとつのコンプレックスの組織は他のコンプレックにとからみ合い、自我組織とも大いにからみ合っているのである。

 

もう1人の私

二人の人 1人に顔がない

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我々はどうしてもやらなければならない仕事に対して

  • 仕事をしようと思った私
  • 仕事しなかった私

がある。わかりやすいのはアニメなどの天使と悪魔の自分のイメージ。天使と悪魔の自分が葛藤を引き起こし、自我の主体性をおびやかしているものがコンプレックスなのだが、天使と悪魔が完全に分離し一個の人格として現れ自我の座を奪ってしまうことが、二重人格の現象である。

二重人格の現象ほど、コンプレックスの脅威を示すものはない。もう1人の私が自我をおしのけて現実の世界に出現してくるのだ。

 

二重人格

二重人格とは、同一個人に異なった二つの人格が交互に現れる現象で、両者の間に自我意識の連続のないものである。

さきほどの天使と悪魔が分かりやすいだろう。しかし、人格が変わったのに他方の人格がその経験を知っている場合も存在する。

ジキル博士とハイド氏の映画は有名だ。

二重人格の現象は古代から存在し、魔術的・宗教的な現象として取り上げられたのではないだろうか。心理学的な問題として研究され始めたのは19世紀後半からといわれている。

我が国において、二重人格の現象は「狐つき」などといわれたようだが、学術報告された事例は少ないようである。

二重人格の治療として催眠が使われていたが、催眠療法によって悪魔を追い出す行為が実は「その人格を育ててしまう」危険があるといわれている。

*特に素人の催眠療法は非常に危険

二重人格の現象と似ていて、違った側面をもつ二重身というものもある。

 

二重身(ドッペルゲンガー)

二重身の現象というのは、二重人格と異なり自分が重複存在として体験され、もう1人の自分が見えたり、感じられたりすることである。

二重人格の事例が現代ではほとんどないのに対して、二重身の例は今も存在する。

二重人格の現象がコンプレックスの概念で説明しやすかったのとは異なり、二重身の現象は説明に難しいようだ。

芸術家に多くみられ

  • ムンク
  • 芥川龍之介
  • 三島由紀夫

などが、例に説明されている。

二重身の体験には「死の影」がつきまとい、自ら命を絶ち生涯を終える例もある。

二重身の現象は、二重人格のように単純ではなく劣等感が影響してると考えられる。劣等感コンプレックスは誰にとっても問題であるし、理解しやすい事である。

 

劣等感コンプレックス

劣等感コンプレックスの重要性を強調したのはアドラーである。彼はフロイトの性欲説に対して、人間にとってもっとも根源的な欲望は権力への欲求であると主張した。

アドラーによると

人間は誰しも劣等感をもっており、人間のもつ社会的感情を重視し、人間は社会的存在として教育されねばならないと説いたので、宗教家や教育者にその教えが広まった。

本書より引用

しかし、劣等感について誤解や浅い理解しかないことも多い。

そこで劣等感について考えてみる。

何かについて劣等であること、あるいはその劣等性を認識することと劣等感コンプレックとは異なる。

自分の劣等性の認識は、むしろコンプレックスを克服した姿である。

劣等感コンプレックスは一つの事に対して

  • 練習して出来るようになる
  • 自分ができないことを認める

ことによって解消することができる。

できないことを認めることは、その人の人格の尊厳性が失われないからである。しかし、個人的には逃げ癖がついてしまう気がする。

傷つくのを恐れるあまり、すぐに認めるからである。これは私自身に感じられることだ。

劣等感コンプレックスがある人は、それを埋める優越感を獲得したいが為に他人を救いたがる傾向が強い。そのようなコンプレックスをメサイヤコンプレックスとよぶ。

他人の為に尽くそうとする善行の陰に、劣等感コンプレックスの裏返しが存在していることを、自ら認めるのは辛いことである。悩める人のために尽くしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。

先ず救われるべき人は「他人なのか、それとも自分なのか」

 

心の相補性

前に述べた二重人格に顕著であるが、無意識内に形づくられてくる心的内容は、その人の自我の一面を補うような傾向がある。

わかりやすい天使と悪魔の関係だ。

自我の一面性を補償するものとして、コンプレックスが大きい役割りを果たしている。

ユングは、人間の心のこのような相補性に注目し、人間の心は全体として、つまり意識・無意識を包含して、全くひとつの存在であるという考えをもっていた。

すべてのコンプレックスは、もう1人の私たり得る可能性をもっている。

本書より引用

「もう1人の私」の問題を追求するとき、われわれは明確には把握し得ないにしても、心の奥深く存在する高次の「私」すなわち自己の存在を予感する。

心の相補性は、1人の人の心の内部にのみ生じるのではなく、2人の人間に生じることもある。

わかりやすい例えでは、恋人や夫婦といえる。ビジネスパートナーという場合もあるだろう。

コンプレックスの問題は、このように対人関係にも微妙に入り込んでくるのである。

 

コンプレックスの現象

悩んでる女の子

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コンプレックスの現象を日常的なレベルで系統的に示し考えてみたい。

 

自我とコンプレックスとの関係

例えば、ある人が慈善事業をしたとする。

その行為がどのようなコンプレックスによってなされていることが解っても、その行為自体の善悪や価値とは関係のないことである。

このような意味で、慈善は慈善であって、何もそれについてとやかくいうことはない。ところが、その慈善のあり方が、例えば「他人に施すために家族を顧みない」とか、しなくてもよい親切の押し売りをしているとかになってくると、それによる害を受けている人が生じてくる。

自我がコンプレックスの支配に屈するとき、その行動は現実を無視し、従ってその行動に対する評価は低くならざるを得ないのである。

自我とコンプレックスの関係を大別してみる

①自我がコンプレックスの存在をほとんど意識せず、その影響も受けていない

コンプレックスがすべて無くなるなどということは人間業ではない。そうなった時はホトケになっていることだろう。

コンプレックスの存在が自我に全然意識されていない間に、コンプレックスの方は無意識下でだんだんと強力になってゆきつつある。

ある時、突然にコンプレックスの優位性が示されるとき、全く恐ろしいことになる。そのもっとも劇的な場合が③の二重人格の現象である。

 

②自我が何らかの意味でコンプレックスの影響を受けている

コンプレックスの存在を自我が意識していないが、コンプレックスの働きが自我に及んでいる場合は、感情のゆれとして経験され外からも観察することができる。

例えば、何かわからないがイライラする、あるいは気分が沈んで仕方ないなど。

この情緒不安定さは本人も感じ、他人にも解るが、それがどのコンプレックスと関連してるのか本人に解らぬときが多い。

コンプレックスが強くなると

  • 劣等感について知的な理解をすること
  • 知性化してコンプレックスの本質から逃げる

以上のような両面性がある。

コンプレックスの力が強くなると自我防衛の機制として色々な手段を用いる。

自我がコンプレックスを完全におさえつける=抑圧、これが上手くいけば①の状況となる。

なかなか抑圧しきれないので、他の手段として投影がある。自分のコンプレックスを他人に転嫁し、非難して自我の安定をはかる。

よくみかける、人の悪口ばかり言う人である。

しかし、投影される側も、何らかの意味で投影を誘い出すカギをもっている。

これは、同じ穴のムジナ、類は友を呼ぶがわかりやすいのではないであろうか。人は自分のコンプレックスと似た人に投影しやすい気がする。

 

反動形成

自我によって受け入れ難い欲求と逆のことをすることによって、自我の安定を保とうとする。

好きな子に悪口を言うのがわかりやすいだろう。

人を真剣に愛するということは恐ろしいことだ。他人に対する愛情を意識する前に反動形成が生じることは多い。

 

代償

コンプレックスに基づく欲求を自我が受け入れ難いとき、その本来の対象と異なるものを代償としてえらぶのである。

例えば、父親に対して強い愛着心と激しい怒りがある場合、その娘が世の中の男性一般に恨みがあるが如く復讐してるかのように、男性遍歴を重ねる場合がある。

彼女の男性遍歴は父親の代償として、それを求める感情と復讐したい感情とを向けるため多くの男性を選んだと理解できる。

 

自我とコンプレックスの同一化

自分の意志で判断し行動することを殆どしていない場合が多い、良い子が突然、グレルのがわかりやすいだろう。

自我とコンプレックスが完全に分離し、その主体性の交代が行われる

④自我とコンプレックスとの間に望ましい関係がある

後でコンプレックスの解消で説明する

 

ノイローゼ

ノイローゼというのは、あるコンプレックスが自我に影響を及ぼし、それが神経症症状となって出現している場合で、どうしても意識的には治すことができないのである。

自我がコンプレックスの影響化にあるといっても、ノイローゼになる人の自我が他の人より必ずしも弱いとは限らない。

ノイローゼになるかならないかは、その個人としての自我とコンプレックスの相対的な力関係にある。

例えば、舟に荷を積むとき、小さい舟でも小さい荷を積めば問題はない。つまり、このときは正常である。ところが、大きい舟でも荷がうんと重ければ少しは障害を起こすだろう。この場合がノイローゼである。

知らぬ間に他人の舟に少し荷物をのせたり、他の舟に引っ張って貰って、自分の舟に故障がないような状況もある。このような人はノイローゼではないという意味では、正常だが、他人に随分迷惑をかけており、時には犯罪者であったりする。

 

フロイトの神経症理論

コンプレックスの中核として性的外傷体験、例えば女性であれば幼児期に父親から性的関係を迫られたなどが存在することが解った。

転換ヒステリー

コンプレックスの働きが転換され身体機能の方に向い、手足の麻痺、耳が聞こえない、目が見えないなどの身体機能の障害が生じていると考える。

 

不安ヒステリー

これは転換ヒステリーの場合は不安が認められないのに対して、コンプレックスの働きは身体的なものに転換されず、その対象が他のものに向けられる。例えば、馬をみると不安・乗り物が怖いなど。現在では恐怖症と呼ばれているものである。

コンプレックスの本来の対象については抑圧がはたらき、それが代償機制により馬とか乗り物に向けられているわけである。

 

強迫神経症

自分は「人を殺すのではないか」といった観念が常に浮かんできて、どうしようもないノイローゼ。

外傷体験そのものは記憶しているが、それに伴う感情を抑圧していると考えられる。感情を抑圧とは、コンプレックスに基づいて感情抜きで繰り返され、観念内容が中身のない状況であり、どうしようもない気持ちになるようだ。

 

以上がフロイトのノイローゼの分類であるが、ユングは「いかに治療するか」という観点から考えるとき、このような分類に基づく診断は余り意味がないことを主張した。

真の心理的診断は「治療の最後にのみ明らかとなる」ものだから治療者としては先入観を排する意味でも、症状による診断にとらわれない方がいいと考えた。

 

ユングはノイローゼの分類に興味を示さず、コンプレックスの内容をいかに自我に統合してゆくか、自己実現の過程の解明へと力を注いだ。自己実現までの治療者と患者の人間関係は重要である。

抑うつ者の人の心理治療に成功したとき、その人が以前より成長したことをはっきりと認められることは多い。しかし、抑うつ症状は繰り返される場合が多く、最悪自殺の可能性もある。

ノイローゼは多くの相対関係で生じるため、必ずしも自我が弱いとか、相手が強いとかではない。その人の素質や環境によって変わるものである。

 

人間関係とコンプレックス

コンプレックスには感応現象が存在すると言いたい程、同種のコンプレックスは影響し合うように思われる。例えば、強いコンプレックスを持った人と接すると、何となくこちらのコンプレックスまでが刺激を受け始め不安定な感じがしてくる。

コンプレックスが強いひとは、傷つきやすいのである。

コンプレックスの投影が集団として生じるとき、いわゆるスケープゴートの現象となる。誰かをスケープゴート(いけにえの羊)にすることによって、集団は結集しやすい。

しかし、これは手軽ではあるが安易な方法であり、強そうでもろい集団構造である。

これに似た現象として、コンプレックスの共有による集団構造という現象があり、いわゆる不良少年の集団である。この集団は居心地が良く、暖かさから離れてゆく淋しさに耐えられず、なかなか抜け出せなくなる。

自己実現の道は孤独な道であり、緩い人間関係を切らねばならないのである。

 

人間関係における代償

当人はむしろ迷惑がっているのに、それを勝手に心理的な息子や娘にみたててしまい親切の押し売りをしているケース。こんな人は、自分自身の子供達に対しては冷淡、無関心であったりすることが多い。

現代でいえば、女性アイドルがそれに当たるのではないだろうか?

 

コンプレックスの解消

少年が川で水をくんでいる

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コンプレックスとの対決

登校拒否症

学校恐怖症になる原因は色々あるが、その中核となるものは、母親との関係に重要な因子があるようだ。登校拒否症は本人のみの問題ではなく取り巻く環境や家族も大きく関係してくる。

例えば、家庭内で孤立・家出して孤立するのは人間関係を拒否しており、母親からの自立ではない。各人の、母親のみならずの心に荒れ狂った感情の嵐は、コンプレックスの解消に必要になるようだ。

コンプレックスが自我に抑圧され、徐々に力を蓄えてゆく以前に、自我がコンプレックスと適切な接触を保ち、小爆発を時に伴うにしろ、その内容を自我に統合してゆく努力を続けてゆくならば、安全な状態で成長できると考えられる。

*本書内では、ある家族の例があげられているが、特殊な環境であるため割愛する。

コンプレックスの解消は常に苦しいものとは限らない。

コンプレックスの解消を行うために、その人が心理治療家と対話を重ねることは大切である。今まではっきりと意識していなかったことについて、対話を通じて明確にしていく…

しかし、この対話は一般的な「対話ムードではなく」自分の劣等生の認識のために行われるためきびしいものとなる。比喩的にいえば、自我とコンプレックスの望ましい関係とは、両者の対話が成立していることであると理解できよう。

「対決」という言葉を用いたのは対話という言葉から甘い関係を想像されることを避けるためであるが、決して、敵対や攻撃をよしとしているわけではない。

コンプレックスの解消に必要なのは「愛情を背景とした対決であり」ごまかしのない対話であるといえる。

 

トリックスター

自我はある程度の安定度と統合性を保ちながら、それを脅かさないようにコンプレックスを抑圧していることが多い。それを改変してゆくためには、時には、自我を破壊してしまわない程度の爆発を必要とすることがある。

トリックスターとは、多くの神話や伝説な中で活躍するいたずら者で、その狡猾さと行動力において比類のないものである。

本書より引用

NGT騒動における、山口真帆さんはトリックスターといえる。グループに対してSNSで批判するスタイルは破壊的であったが、そのおかけで以前よりはグループ内の秩序は回復したと考えられる。

山口真帆さん襲撃から、ひと月を彼女は耐えている。これはグループ側と山口さん側の自我が適切な強さに達するまで待っている状態といえる。そして、時が至った時に爆発が生じる。

この爆発をキッカケとして新しい人間関係が出来上がっていくのである。そこには高次の安定性が期待できる。

しかし、挫折したトリックスター程みじめなものはない。そこには破壊と悲惨のみが残り、怒りと嘲笑を一身に受けなければならない。

 

死の体験

トリックスターなどの心的存在は、その目的が達成されると消えてしまう。その人にとって満たされた心的状態になると必要なくなるからだ。

著書のなかであげられている例が興味深い。

井上靖の「化石」主人公は癌であり手術不可能で病気のことを誰にも述べず、残された人生を出来るかぎり強く生き抜こうとする。

ところが最後に、奇跡的に手術が成功し主人公の命は助かることになる。死が遠い存在になったあと、むしろ生気を失ってしまった、という話。

これは、生命の死についてであるが、ひとりの人間の成長には、何らかの意味の内面的な死の体験が伴う。

本書より引用

さきほどのトリックスターが目的を達成したら消えるというのも、内面的な死の体験である。

我々は生きてゆくために、どれほど多くのことに対して「見て見ぬふり」をしているのだろうか。見ぬふりどころか、私たちに見えてるものは少ない。

我々が何かを「体験するとき」それは、それに伴う外的・内的な刺激をできるかぎり受け止め、それを自我の体制の中に組み込んだときであるといえる。

死の体験という場合、心の中で、苦しみ・悲しみ・厳しさなどの感情すべてを自我が認知し、自分の心に意味づけし組み込まなければならない。

死の体験が深い程、それは再生へとつながるのだ。

例えば、いじめられてた人がプロボクサーやお笑い芸人になった話は有名でなかろうか。あれは、1度いじめられてた自分が、心的に死んでおり、それをバネに再生していると考える。

コンプレックスの解消は、何らかの意味で死の体験を伴っている。

 

儀式の意味

死の体験を内面化してゆくためには、それにふさわしい自我の強さを必要とするが、それが不可能なとき、時として、それは自殺や他殺の行為を引きおこすことになる。

我々の自我が成長を遂げようとするかぎり、何らかの新しい体験を必要とする。コンプレックスと対決して、その内容を自我に組み入れるためには、コンプレックスの感情を体験して、我がものとしなければならない。

自我が、コンプレックスの内容を自分のものとするために、儀式というものがあるとユングは考える。

本書より引用

私の父は、すでに他界したが、愛情が深い関係のひとの死を体験すると、儀式の意味はわかりやすい。

葬式、初七日、49日、初盆などの儀式は表向きは供養であるとされてるが、残された人が故人の死を受け入れてゆく儀式と感じた。

自我の中に最愛の人の死を少しずつ時間をかけながら受け入れてゆくのである。我々が何かを体験するためには、それが自我の機能を破壊するようなものであってはならない。

儀式は形骸化されては、本来の意味を失ってしまう。

個人的に始める儀式・入学式・入社式・結婚式よりも終わりの儀式・卒業式や葬式などに重要性を感じた。

成人式の若者の態度が問題になるが、儀式ばった行為だけで精神がない儀式はすでに形骸化されており必要がないのだ。成人式の内容を見直さなければならないだろう。

卒業旅行というものがあるが、それは死と再生の体験につきものの「旅として一つの儀式」として高められ、真の意味の卒業式といえよう。

形骸化された儀式のみならず全ての儀式を否定した若者は、再生のエネルギーの流出の道を自ら絶ち、そこにはエネルギーの沈滞が生じ爆発し事件が起こる。

成人式で暴れてる若者がコンプレックスの解消が出来ていないとわかるだろう。

また、火遊びの儀式を通過せずに成人になる人も多い。これらの人は、盗みや火遊びをせず親のいいつけをよく守る人として、エリートと見なされているときさえある。

40歳近くになり「エリートの心が動きだす」と避け難い火遊びへの衝動と、親に対する罪責感の板挟みとなり自殺する人は多い。最近では性的な犯罪をよく見かける。

若い頃の適度な火遊びは必要であり、それに対して怒られ、自分の心にしっかりと悪として刻む必要があるように感じる。

 

夢とコンプレックス

銅像が3体

Pexels / Pixabay

自我の一面性を補う意味をもって夢が出現することがある。あるいは、心の相補性という点についてのべたように、コンプレックスが自我と相補的な関係にあることを思えば、多くの夢がコンプレックスから自我へのメッセージとして出現していると考えられる。

このような観点から、夢の現象を探索すると多くの示唆が得られることが多い。

 

コンプレックスの人格化

コンプレックスの人格化を、我々が如実に経験するのが夢の体験である。夢の中で、我々の多くのコンプレックスが人格化されて出現する。

コンプレックスの人格化は、夢の現象のみ生じるとは限らない。

我々が、誰かに対して「虫が好かない」とか毛嫌いする場合、われわれはその人が自分のコンプレックスを人格化したものではないかと考えてみるといい。

 

夢の意味

我々の行動は、コンプレックスの影響を多く受けてきている。しかし、自我はコンプレックスの実態が把握できないので困っていることが多い。

睡眠中は自我の力が弱まるので、コンプレックスの活動が活発となり、その動きを自我は夢として把握することになる。

夢の内容は自我の把握し得てない心の動きを、しばしば伝えてくれるわけである。つまり、夢によって、われわれはコンプレックスの状態を知ることができるのである。

イメージは無意識から自我に語りかける言語であり、その意味を明確に把握するためには、自我はそれを言語化することによって自分のものとしなければならない。

以上が夢の解釈の仕事である。

夢の解釈はひとつではなく、我々はどの解釈が正しいよりも、その人の自我を改変し自己実現をすすめるために役立つのか?を問題とする方がいい。

夢の分析は、コンプレックスとの対決という苦しい仕事を課せられることになる。

 

男性像と女性像

コンプレックスとの関連における男性像と女性像について。

男性と女性の区別は身体的・生理的に明らかである。それを背景として、心理的にも性意識の差というものが存在する。

男性であれば自分を男性として意識し、一般に男らしいと考えられている属性を自分のものにしようと努め、それを自分のものと感じる。女性の場合もこれと全く同様である。

そして、この両者の属性は両立することが困難であり、また社会的な要請のためもあって、男女の性差に従って、一般に男らしいとか女らしいとかいわれる性格をもった自我が形成されてゆくのである。

全ての男性は女性的な面を潜在的にもっているし、全ての女性も同様に、男性的な面を無意識内の可能性としてもっているということができる。

女性における男性的な強さと独立心のコンプレックスを、ディアナコンプレックスと呼ぶ。男性を、寄せつけずに独身をとおすか、たとえ結婚したとしても、その相手を非男性化してしまうであろう。

ディアナコンプレックスを完全に抑圧し切っている女性は、余りにも自立性に乏しいために同性達からは相手にされず、その自立性の乏しさ故に一般の男性から好かれることの多い人である。

このような人は、少々美人であることが多く、その上個性に乏しいので、男性達のあらゆる投影を引き受けるのにふさわしい状態にある。多くの男性が彼女の周囲に集まるのも当然である。

ユングは女性のディアナコンプレックスの課題に長く取り組んできたが、女性の中の男性像はコンプレックスと呼べる範囲をこえており、人間の個人体験をこえた普遍的な性質をもつものであると明らかにした。このことは、男性の心の中の女性像についても同様である。

普遍的な性質を元型と呼んだ。

  • 男性の中の女性像の元型をアニマ
  • 女性の中の男性像の元型をアニムス

以上のように名付けた。

アニムスとメサイヤコンプレックス(救世主)が存在すると、その女性が慈善事業に邁進するとき、男まさりの大活躍をするであろう。男性顔負けの演説をするようになる。

アニマとカインコンプレックス(嫉妬)が存在すると、その男性は同僚に対して裏から攻撃したりして、女のくさったような奴という烙印を押されたりすることになる。

このように元型とコンプレックスの関係は人にとって大きいのである。

神経症の原因として、その人が、平均以上の何物かを有しているためとさえいえ、そのような人は自分の中の元型を受け入れ創造活動(絵を描く、音楽など)をすることによってのみ、その神経症を克服できることもある。

 

夢の中の私

夢が無意識にコンプレックスを伝えてくれるならば、夢の中の私とは何であろうか?

夢の中の私は、自我そのものではないが、可能性としての自我、あるいは潜在的自我の像と呼ぶべきものであろう。

  • 夢の中の私は、将来の可能な体験を先取りする
  • 夢の中の私は、過去の私であることもある

夢の中の私は、コンプレックスとの強い関連性を生きている自我の側面であり、コンプレックスと自我との対決を通じて自我の発展が生じることを考えると、それが自我の発展の可能性を示すものであることも了解できるのである。

子供が(自分)両親から離れ自立してゆこうとするとき、その両親像の急激な変化を表すものとして、両親の死の夢を見ることは多い。この悲しみと孤独に耐えられぬ人は、両親から独立してゆくことができない。

 

コンプレックスと元型

青空と未来への道

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エディプスコンプレックス

男性の無意識内には母親をその愛の対象とし、父親を敵対視する衝動が存在すると判断し、その抑圧に伴ってコンプレックスが形成されると考えた。

女性にもこれに対応するコンプレックスがあると指摘し、エレクトラコンプレックスと名付けた。

しかし、単純に異性の親を愛し、同性の親を憎むとは言い切れない。このようなコンプレックスに自我が影響されると多くの障害が生じてくる。

人間の自我はそのエディプスコンプレックスをどのように取り扱うかということを、その一生の課題としているとさえいうことができる。

 

文化差の問題

文化人類学の発展に伴い、コンプレックスの解明についても、文化差を考慮すべきことが明らかにされ、エディプスコンプレックスは、西洋における父系制社会において重要なものであることが示された。

個人の体験をこえ人類共通に基本的なパターンとして、母なるものの元型をグレートマザーと名付けた。

現代の我が国はグレートマザーの元型の強力な作用を受けている。母なる海、母なる大地という表現は無意識のうちにあるものだからだ。

さらに追求すると、我が国の文化は心理的にグレートマザーの元型の支配を受けながら、それを父権制という社会制度によって補償しながら平衡を保ってきたのだ。

現在、父親像の喪失を嘆く人は多いが、喪失ではなく父性像は存在しなかったのである。

日本と西洋の文化差における心的内容が多く書かれているが、コンプレックスとは関係ないので割愛する。興味がある方は本書を読んでいただきたい。

  • 西洋には対人恐怖症が少ない
  • 日本人は他人の心を察する
  • 甘える、は日本語特有の表現

以上の内容について書いてある。

 

元型

元型という考えは、ユングの理論の特徴をよく示しているものである。

元型については無意識な領域の話が多く、こちらの記事を参照して下さい

心理学は面白い!ユングの心理学の基本を学ぶなら「無意識の構造」河合隼雄著

 

自己実現

自己実現の過程とは

自我が、普遍的無意識から送られてくるメッセージを、いかに意味づけ創造的な生活を生み出してゆくのかである。

自己実現とは、自分が自分らしく生きること

 

自分の心に向かって少しでも目を開くなら、自分の心の中に存在するコンプレックスに気づくはずである。

「すべて私が悪いのです」といった消極的な反省ではなく、自分の心との対決は他人の心との対決でもある。

コンプレックスと対決するには自我が十分に強くなければならない。

無意識的な悩みやコンプレックスと対決している時期に、家族や仕事の存在は心の支えとして大きい。

 

現在の情報過多の状態は、あらゆる機会にわれわれのコンプレックスに作用を及ぼす。

SNS、TwitterやFacebookなどは他人と比較する事が多くなりコンプレックスをくすぐるのだ。他人と比較してる限り、自分の幸せを見つけることはできない。

自分の幸せは、自分の中にしかないからだ

自分の幸せという容器の大きさも自分で選ばなければならない。

コンプレックスを拒否したり、回避したりすることなく、それとの対決を通じて、死と再生の体験をし、自我の力をだんだんと強めてゆくことが自己実現の過程なのである。

強化された自我をもって、コンプレックスと対決し、それを同化することを目指すべきである。

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